Ballads は語る  マスター  2002-05-12 09:00:00  No.7

 懐かしさに
 ぼんやりバスを降りた
 橋の上 霧雨の水銀灯 … 

 この歌いい。
 でも特に思い入れのない人にはどうでもいい歌かもしれない。
 誰にだって語るに足りる人生がある。でも、そうそう語れるものでもない。言葉にすると、とんでもないほど薄っぺらくなりそうな気がするからだ。「ふーん。」、「ああ、そう、それで?オチは?」でおしまいみたいな。そんな、どうでもいいもんじゃないのに。わかろうとしてない人に語ってしまったりすれば後悔するだろうし、それは永遠の消耗だ。いるか喫茶では、そのような種類の消耗が決してあってはならないのだ。(なんか堅いな。それに理解し難い。)
 亀岡に超こだわりの蕎麦屋さんがある。初めて入ったら何を食べるべきか決められている。お品書きから選べるのは何度か通ってからだ。それだけ自信を持ってるだけあって確かにおいしい。店主の気にさわることでもしたら「金は、いらないから出て行ってくれ。」って言われそうだ。そういう店がある。
 昔、からふね屋ができた頃、飲んだ帰りに入ってボックス席で片足だけ靴を脱いで「半あぐら?」をかいてた。そしたら、ウェイターさんに「足を下ろしてください。」って注意された。すみませんでした。無作法なもんで…。(今でも注意されるんだろうか。試してみる価値はないと思うが。)そういう上品な店があるのもいい。
 ある茶店のハムトーストがおいしいと聞いて期待して行った。入ったら常連だけで固まってそこに居る人全員に頭からつまさきまでじろっと見られた。僕はそんなこと無視して、あいてる席に座ろうとしたらマスターに「すみません満席です。」って言われた。よほど僕は招かれざる客だったんだろうな。そういう店もあっていいけど今はないみたいだ。
 近所にジャズ喫茶があって何度か行ってからキース・ジャレット「ケルン・コンサート」をリクエストした。そのアルバムが鳴り出したら客席がざわめきだして、すぐ前の数人のグループは「誰だこんなんリクエストしてんのは」とか「あんなの誰でも弾けるよな。」とか大声でしゃべってた。僕はとんでもない事してしまったと思った。まあ、そういう店もあっていい。
 ちょっと前、北山通り沿いの凄い音響設備の茶店に入った。スピーカーはタンノイか何かでアンプは真空管。マイクロのターンテーブルにオルトフォンのカートリッジ。凄いですねって言った。そう言うべき雰囲気だった。もちろんそういう店はありつづけてほしい。
 ある小さなレストランでカンガルーの肉を食べた。かたくて苦労して食べた。食べた後「どうでした?」って聞かれた。「まずかった。」なんて言えないでしょうが。しかしそういう店があってもいい。
 禁煙の喫茶店、携帯電話禁止の喫茶店、ピカピカの床のオシャレな喫茶店、ストレートコーヒーしか出さない喫茶店、星条旗を掲げてる喫茶店、掲示板にコーヒー・チケットがずらりと張ってある喫茶店、お客さんが並ぶほどコーヒーがおいしいけどコーヒー飲んだらすぐ出て行かないといけないような喫茶店、いろいろあっていい。現に行きたい人が居るんだからそういう店が成り立つんだ。
 はっきり言って、いるか喫茶はそういう茶店ではありません。しかし、いるか喫茶も何となく普通じゃない雰囲気がして初めての人はとても入りづらいという事を聞いた。偏屈なおやじがやってんじゃないかとか、コーヒー飲んだら必ず誉めなきゃならないとか、オーディオ設備に感心しないといけないとか、常連が居て誰の席とかいろんなしきたりがあるんじゃないかとか、果ては麻薬の密売所になってるんじゃないかなんていう想像をした人も居る。「最悪でも殺されはしないだろうから。」と覚悟を決めて一人で入ったという女の人も居る。それらの先入観は、全くの誤解です。いるか喫茶はそこらにあるただの茶店だ。コーヒーが特別おいしいわけでもない。自家焙煎、煎りたて、挽きたて、サイフォン1杯立てとか自家製ベーコンとか言っても凝ってる割にそんなにたいしたことはない。多くの人を納得させるほどの実力なんてない。オーディオにやたらお金をかけてるわけでもない。カウンターだってあいてりゃ誰が座ってもいい。良くわかんないしきたりなんてあるわけない。変ってると言えば、土日祭日が休みという事だけ(土日祭日は僕も茶店に行ってコーヒーでも飲みたいから。)。もちろん禁煙じゃない。携帯がかかってくりゃでかい声で話す人も居る(BGMがかなり大きいから)。いいじゃないですか。畑で仕事して思い切り泥のついた長靴で休憩に入るおじいさんも居る。かまわない。床は汚れるもんだ。朝から晩まで隅の席で毎日勉強してる人も居た(時々寝てたけど。)。その人は今、研修医になって忙しくてめったに来れない。 そのようにいろんな人が居てみんな違ってて、誰にだって語るに足りる人生がある。それは、言葉じゃなくてその人を含めた「場」で語られる。
 西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」にひたってる人も居た。僕にとっては古すぎてどうでもいい曲だ。でも、ひたってもらえるということは、いるか喫茶の存在意義を与えてくださることだし、とてもうれしいし、そういう場を演出すると言えるほどの大それたことはできないけどできるかぎり邪魔したくない。さらに、そういうときに手があいてれば、どんな曲でも耳を清まそうと思う。音楽を聴くというより、その場で語られる物語を拾い読むために。たとえキース・ジャレットのケルンコンサートがかかっていたとしても。(現在、いるか喫茶バーの定休日は、日・月・祭日とさせていただいております。2013年77日)


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