シンガポールスリングについて語る。  高田裕之(マスター)  2008-10-22 22:53:00  No.426

チェリーブランデーの赤が南国の夕焼けを思わせるジンベースのスリング。

スリングはスピリットをレモンジュースとソーダで割り、好みによって甘味を加える
ロングカクテルの代表的なスタイル。

イギリスの作家サマセット・モームはシンガポールのラッフルズホテルを仕事場として愛用していた。
「月と6ペンス」「人間の絆」はラッフルズホテルの78号室で書かれた。

1915年、その日は鮮やかな夕焼けがホテルのラウンジから見渡せた。
モームは、バーカウンターから窓の外の光景に見入っていた。
水平線に沈んだばかりの太陽の残像と茜色に染められた空、ところどころに浮かぶ金色の雲。
それらを映す海に広がる青と紫のグラデーション。薄暮を吸って燃え立つ紅のハイビスカス。
中空に広がり始める夜空は刻々と藍色から群青へと青を深めていく。
モームは幻想的なその光景に見入っていた。この色たちをいつまでも記憶にとどめたかった。
モームはバーテンダーに言った。

「こんな夕焼けを見たのは生まれて初めてだ。」
「私も長い間ここに居りますが、これほどの夕焼けは記憶にございません。」
と、バーテンダーは答えた。モームは夕焼けを見ながら言った。
「私はこの夕焼けを覚えておきたいんだ。バーテンダー、この夕焼けをカクテルにしてくれ。」
バーテンダーはモームの目線の先の景色を暫らく見つめて決心するように言った。
「かしこまりました。」
ラッフルズホテルのトップバーテンダーは何の迷いもなく、シェーカーを振り出した。

モームはバーテンダーからロングカクテルを受け取り、窓の外に広がる光景にグラスを差し出した。そして、
”I toast the sunset of the southern country!”(南国の夕焼けに乾杯!)と言った。
ゆっくりとカクテルを味わったモームはバーテンダーに言った。
「私が表現する手段は言葉だ。しかし、私の思いつくいかなる言葉をもってしても
君の作ったカクテルより雄弁にこの夕焼けを語ることはできない。」
「おそれいります。」
バーテンダーはグラスを拭きながら微笑んだ。

このお話はノンフィクション的フィクションです。
また、色の表現で荒井由実作詞作曲の晩夏(ひとりの季節)を参考にしました。

表現の手段として作られたカクテルの中でも、シンガポールスリングは最も有名である。
イメージを表現するためにリアルタイムにいわばアドリブでカクテルを作ることは、
バーテンダーとしての才覚を問われることである。
言い換えれば腕の見せどころである。バーテンダーの存在意義を示すことである。
ラッフルズホテルのトップバーテンダーはその仕事をこなすのに十分な人物であった。
モームにとっても、自分のために特別に作られたものという満足感があったに違いない。
しかし、一般に広くバーテンダーがそのように即座にアドリブでカクテルをつくるべきだろうか。
僕は、このことについてはかなり懐疑的だ。数年前まで、そのようなことが一般化していたように思う。
お客様としては特にお目当てのカクテルがないとか思いつかないのなら、イメージでもいいし、
どんな感じのものがほしいかを言えばいいはず。そういった気楽な注文の仕方は歓迎されるべきだ。
例えば、「ジンベースでさっぱりして飲みやすいショートがいいんだけど・・・。」と言われたとする。
バーテンダーはお客様の求めていらっしゃるものを感じ取ってカクテルを作る。そこまではいい。
問題は次の段階。
バーテンダーが感じ取ったイメージに合わせてなんでもかんでもアドリブで作り、
「あなたのために特別に作りました。」みたいに言って出していいもんじゃないと思う。
僕ならばギムレットを出す。状況によってホワイトレディーかも知れない。そしてギムレットにしたならば、
「ギムレットです。」って言って出す。
ひとつには再現性の問題。同じものを何度でも作れるかどうか。
もうひとつはスタンダードに対する敬意の問題。長い間飲まれ続けてきたカクテルには
優れた要素がある。伊達じゃない。歴史があり、物語がある。
バーテンダーの仕事の重要な要素として、紹介能力というものがあると思う。
イメージで注文されてもいくつかのスタンダードを即座に紹介できる知識が必要だと思う。
少なくとも、即座に紹介できるシステムが必要だと思う。
但し、杓子定規にスタンダードのレシピを忠実に守ることだけが重要でもない。
例えばギムレットであればジン:ライムジュースを1:1から4:1の間までなら
ギムレットと名のって良い。それはバーテンダーの裁量の範囲だ。
ホワイトレディにしたって、キュラソーを使うか、コアントローにするかはバーテンダーの裁量の範囲。
サヴォイのレシピとラルースのレシピでは極端な話、同じカクテルでも材料が違うことだってある。
スタンダードを基本にしながらも、店やバーテンダーの個性を出しつつ、しっかりとした再現性を
ひとつひとつのカクテルレパートリーに与えていくのが大事だと思う。
「あの店に行けば、あのカクテルが飲める。」
というふうにお客様に思ってもらえるようにならなければいけない。
http://irukakissa.com/cocktail/detail.php?id=203


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